愛国主義者の楊斌
楊斌は1963年2月11日に中国江蘇省南京市で生まれ、お父さんは軍需企業で働いていたが、病気で亡くなり、お母さんは遠いところに行って再婚した。彼は小さいときからおばあさんと助け合って生きてきた。小学校から大学までは党と国家の育成のもとで完成し、愛国主義教育を受けた。そして部隊と軍事学校で生活したことがある。だから、彼は常に「私は長江の水を飲んで成長したので、中国人民の息子である」を言っている。
楊斌の中学校の担任として、南京金陵中学教師の葛娅蓮先生は2007年の秋に公務で北京へ出張した、私はこれをチャンスに彼女に会った。楊斌が刑罰された後、彼女は瀋陽刑務所に行ったことがあり、瀋陽一行を簡単に追憶した:2004年の春節、私は瀋陽へ行った。その日にぼたん雪がおり、南方で成長してきた私にとってはこんなに大きい雪ははじめであった、天気は非常に寒かった。小さいときから親を失っておばあさん2人で暮らしてきた楊斌は担任であった私を見て子供が親を会ったほどうれしかった。学校で楊斌は努力する子で、私は非常に彼の成長に関心を持っていた。そして、彼は何でも私によく言った。会ったとき、彼に「あなたは私の学生で、私は自分の学生が罪人になることを望まない。あなたは本音を言って、どうしてこんなに長い有期懲役に処したのか?」と聞いたが、彼は「葛先生、私を信じて下さい、本当に犯罪しなかった」と答えた、「こんな大きな企業で下役が法律を違反したかどうか、あなたに責任を負うのか」と聞かれたら、「下役は法律を違反したが、たいしたことじゃない。6項罪状が事実でないことは弁護士がすでにはっきり説明した。先生、本当に無実の罪である」と言った。
葛娅蓮はそれから華東政治法律学院と南京大学法学院で勉強して南京市検察院の司法官、法律政策研究室の副主任、南京法学会刑法と刑訴訟法学研究会の事務総長などの職を担任して中国法律を研究している。
「この18年間は、国家法律によって必ず半分以上の刑期が満期してから減刑できる。あなたはどうするつもり?」
「私は中国政府が中朝の友情をあきらめないことを信じる。この件で、彼らは私を普通の商人にしたかもしれなく、すでに朝鮮民衆の感情を傷つけたことを思い付かなかった。母は間違って私を罰したけど、子供として苦しくても大丈夫…”。
「愚痴が一言もなく、平気であった楊斌を見て、涙を流した。彼は先生、私は東北アジアの平和のために刑罰されたので、得だよと私を慰めた」と葛娅蓮がこう述べた。
記憶によって、2002年の夏のある深夜、楊斌はチャットに私を彼の別荘に招いた。「関先生、もし新義州特区は作り上げるならば、東北アジアの平和には貢献であるか?」と私に聞いた。
私は「あれはもちろんのこと」と答えた。
「もし新義州特区は成功するならば、朝方は対外開放や対内改革に尽くし、朝鮮民衆も中国人のように幸せに生活できる。東北アジアの各国のいずれも試合のように経済を発展させ、誰も平和共存して戦争をしない」と彼が言った。
楊斌は新義州特区基本法の起草に参与した時、まずとしていかなる国家の政治組織が新義州で活動していけないと提出した、それに法輪功活動も決して許可しない。その目的は新義州で中国に向ける活動を免れるのである。
楊斌のやり方は正しく、「実家」の中国も「嫁ぎ先」の朝鮮も配慮したといえる。このような考えと選択は愛国主義とインターナショナリズムの思想の産物と思う。
あなたは楊斌事件が公正でなく、楊斌も愛国主義者とインターナショナリズム者と言ったのに、何で遼寧裁判所は18年間の有期懲役に処したのか?そして、あなたは中国法律が公正公開で、透明であることを発表したが、と読者から問い詰められるかもしれない。筆者は答えることしかできないのは楊斌事件は各方面にかかわり、比較的に複雑であるが、しかし楊斌のストーリはまだ終わっていなく、伝記もまだ続いている、すべてのすべてはまだ定説していない。
私は依然として中国共産党が従ってきた「事実に基づいて真実を求める」や歴史のもとの様子に戻ることを信じる。